長崎の風景
 
長崎の方には見慣れた風景ですが、
少しずつ、写真を掲載いたします。
  
 
 歴史は必ずしも正しいとはいえないものもあります。歴史本によって異なる記事は意外と多いからですが、しかし、300年も前のことを今振り返り、そういうことがあったんだと、思える中味にしました。伝説的な記事もあります。お許しください。

     @、長崎の歴史年表

   A、キリスト教の歴史年表.

長崎の歴史と旅の風景 目次
タイトル(文字をクリックするとそこへつながります)
 19  港と教会 。大浦天主堂の上から見る。
 18  島原の乱、異聞、徳川家康と上使・板倉重昌 
 17  4月12日(旧暦2/28)は原城陥落の日。 4万の一揆民に、思う。
 16  長崎の街と港を高台から見ると。
 15  軍艦島、加害の歴史と今。
 14  長崎の隠れキリシタン教会群を見てみる。
 13 長崎の石橋群とお寺散策。長崎のお寺は石橋とつながっている。
12 ロシア人居留地、稲佐界隈散策
11 300年前の五島、久賀島。忠臣蔵47士、生き残り、寺坂吉衛門伝説を訪ねて。
10 長崎県の戦争遺跡。川棚の特攻人間魚雷基地跡訪問
9 長崎のまちの発祥地、長崎公園あたり散策。
8 1571年、長崎開港の頃。
日本労働運動の父、高野房太郎、岩三郎兄弟の生家(銀屋町=めがね橋近く)付近探索
深堀騒動(長崎版忠臣蔵)、深堀藩の武士が町年寄(現在の市長)高木家を襲撃した事件
日見峠5本の道、長崎街道編(長崎街道の難所、日見峠の歴史道)
日本列島最西端、野母崎の遠見所編(日本の西の軍事要塞基地)
如己堂、永井博士編(自ら長崎原爆で被爆しながら、被爆者のために尽力した医学博士
長崎の洋館群編(東山手の活水大学付近の写真等)
原爆落下中心地編(原爆公園の落下中心地付近の風景)
 
 
  長崎の歴史と旅の風景19

  港と教会。大浦天主堂の上から見る。

 大浦天主堂の上から港を見るとき、観光客はグラバー園からの港を見る。三菱の造船所が真向かいにある。
 しかし、港はいくつも風景がある。
 この写真は、大浦天主堂の脇の小道の階段をのぼる途中から眺めた光景だ。
 二つのタワーが見えるが、右手前は150年前に建てられた旧大浦天主堂、国宝のタワーだ。左は、新教会、信者用の宗教的な建物である。この二つが重なる光景は、ここだけ、階段を上るしかない。
 途中、旧居留地の外国人用住宅(外国名の方も現住されている)もある、昔ながらの光景が残る。観光客はまず誰も通らないし、地元の人もほとんど通らない、天主堂の壁伝いの細い路地の階段だ。だが、ここを歩くと「長崎」という感じがある。明治や幕末期の大浦天主堂の作りそのままの姿が残る場所だ。200段ほどで、少し息が切れるが、いい場所だ。
 場所は、石畳をのぼり、天主堂に突き当たり、左に細い道へ曲がり、50Mほど歩くと、諏訪神社があり、その手前を右に曲がると、墓の中を登る階段が出てくる。一度、歩いてみてはどうだろうか。
 高島、伊王島行かの船が大波止に向かっている。


 
 
   長崎の歴史と旅の風景18

  島原の乱、異聞、徳川家康と板倉重昌

 日本史最大の一揆、島原、天草の乱は、苛政とキリシタン弾圧に抵抗した4万の民の反乱でした。一揆鎮圧に幕府は、上使(軍の最高責任者)として三河の国深溝藩(1、5万石)の城主、板倉重昌を任命します。
 板倉は譜代大名でしたが、なにせ、関ケ原合戦のころは、5000石の旗本。関ケ原で敗北したとはいえ、九州の外様大名(細川50万国や鍋島35万石)の思いは、はるかに格下であり、論外でした。 
 そこから、歴史は意外な展開となります。
 結論だけいうなら、上使・板倉が戦闘で戦死し、幕府軍は大いにメンツを失います。これは農民側の勝利ではなかったかとも思えるくらいです。
 しかし、この上使・板倉は、本当はただの小大名ではなかったのです。幕府としては家康直系の近習であり、家康の信頼の厚い、人物だったのです。

 その歴史を「島原の乱、異聞、板倉重昌」で整理しました。
以下をクリックください。

  「島原の乱、異聞、上使・板倉重昌」です。


 
 

 長アの歴史と旅の風景17

  4月12日(旧暦2/28)は原城落城の日。 
           4万の一揆民に、思う。

2014年の今年は、大坂夏の陣(1614年)から400年で、先日テレビで特集番組をやっていた。いうまでもなく、天下は1600年の関ヶ原で、東軍の徳川に決していたが、西軍の豊臣勢は依然として数万の軍勢を保ち、大阪城を根拠に幕府へ抵抗を続けていた。これを決したのが、大坂夏、冬の陣(戦)であり、豊臣秀頼が自害し、豊臣の時代はわずか30年間で終わる。 

この二度の大阪の陣で、徳川幕府方の和睦交渉役を務めたのが家康の懐刀であった板倉重昌である。実はこの家康軍勝利の鍵は、この和睦交渉にあったとされる。日本最大の難攻不落の城とされる大阪城の外堀、内堀を埋める策が、幾度かの交渉の中で画策され、結果的に徳川の勝利への道となり、徳川260年の始まりとなる。 

その功績で、板倉は5000石の旗本から、三河の国の高溝藩=1万5千石の大名へと出世する。もともと板倉は家康の近習(秘書兼ボディガード)として仕えていて、信頼が厚かったのだが、禄としていえば、小さい旗本・大名でしかなかった。 

そして、その20年後、1637年12月から4か月間、日本最大の一揆とされる島原の乱がおきる。それまでの島原藩は有馬晴信の領地だったが、禁教令からキリシタン大名の晴信は改易され、後任に奈良の五条藩(1万国)の城主・松倉勝家がつく。松倉は島原藩4万石を10万石と偽装して、税を取り立てる。さらにそれまでの日野江城を捨て、島原に城を作る(森岳城といって、いまの城だ)。この労役も農民の生活を直撃する。

こうした苛酷な税の徴収に怒る島原半島の南免一帯と天草の計16村の農民4万人が、取り潰された有馬藩と小西藩の旧武士らとともに、原城に立てこもり、4か月間も闘った一揆(乱)である。この戦の総大将が天草四郎であった。 

この乱の鎮圧の幕府軍の総大将に、幕府は先の家康の近習だった板倉重昌を命じる。しかし、出陣を命じられた九州の外様の雄藩=細川50万石や鍋島30万石の大大名から見ると、指揮官が1万石の大名では論外で、誰も彼の言うことなど聞きはしない。 

なぜ板倉が上使(総大将)となったのか。逆に言うと、なぜ幕府軍13万人の軍勢の総大将に、1万石の大名がなれたのか。これは不思議だ。
 
歴史は皮肉だが、これは徳川の世が決まった大坂夏の陣にさかのぼる。日本外史(頼山陽)は、「大戦後の処分」の項でこうかく。
「豊臣秀頼以下、絶(和睦の交渉が拒否された)を知り。皆、火を放って自殺す。・・・前将軍(家康のこと)、方(まさ)に進んで桜門(本丸の入口)に至り、以て秀頼の出るを待つ。伊井直孝ら来たり、状(秀頼自殺)を告げて罪を請う。前将軍、これを頷く。即日(八日)午後2時ころ、にわかに駕篭を命じて、独り板倉重正を従え、京へ帰り、夜二鼓(10時ころ)、二条城にはいる。而して大阪の諸将軍、一もこれを知るものなし」と書いている。(岩波文庫、「日本外史下巻」、および、「日本外史を読む」藤高一男著、から) 

大坂夏の陣というまさに徳川の世代の始まりと、豊臣の終わりの瞬間の勝利を見た家康は、家来の板倉重正をたった一人従え、大阪から京都へ走ったのである。(理由は大戦後は必ず雨が降るから、と書かれているが)。

 このとき、配下の将軍は数多いが、この家康の動きを誰も知らなかったということは、このとき、まさに家康の命は重正の存在にかかっていたのだ。戦国の世にこれほどの信頼はない。そして、家康はこの2年後に亡くなるが、重正はその後もこうした立場を維持し、大名として幕府に存在感を示す。事実上の老中的扱いだったと古文書には書かれている。 

そうして話を島原の乱に戻すと、板倉重昌は結局、13万の軍を統制できず、乱の鎮圧に失敗し、時間だけが経ち、しびれを切らした幕府は、さらに上位の老中である松平伊豆の守・信綱を派遣する。これを知った重昌は、1638年1月1日、武士のメンツをかけてと、原城に無理攻めを行い、反撃にあい戦死する。この時、家康はすでに死亡しているが、家康にとっては一番殺してならない家来である板倉が一揆の反乱民によって殺されることなど、あってはならないことであり、幕府にとっては最大の恥辱だったのだ。 

戦国時代の戦とは大将の首とり合戦であり、普通にいえば、これで島原の戦は反乱民の勝利なのだが、一揆鎮圧を至上命題とした幕府軍は、松平伊豆の守を司令官として長期戦をとり、兵糧攻めにする。3か月後の4月12日に総攻撃をかけ、原城は落城し、4万の反乱民はすべて殺される。 

現代の歴史ではこれをキリシタンの反乱と教えているが、秀吉の禁教令と家康の有馬藩改易以降、40年も経ち、農民も棄教・改宗しており、乱の目的を「耶蘇教の反乱」(日本外史、頼山陽)とする幕府の見解は必ずしも史実ではない。その証拠に、乱の後、島原藩の藩主・松倉は徳川時代を通して3,000名いた大名としては唯一人、斬首の刑となっていることから、それは伺える。宗教をめぐる一揆ならば、藩主には責任がないからだ。 

ともあれ、苛政に怒った農民の思いは、徳川を作った家康の懐刀で幕府軍の総大将の板倉重正を討ち取り、藩主である松倉藩を取り潰し、松倉を斬首させたのだから、反乱民=農民の勝利が歴史の事実だろう。

 島原の乱から367年目の春。「農民が正しく、かつあなた方の勝利だ」とする歴史観もまたいいだろう。

今週の土曜日、4月12日が、反乱民4万人の命日であることから、すでに桜の花も散ったが、原城を訪ね、冥福を祈ろうと思う。 

 
 4/12の一揆祭りのために地元の人がつくった板張りの一夜城。
 
 原城から談合島(島原と天草の中間にある島で、一揆を話し合った島を見る、石像。
 
 原城石垣跡。
 
 城の石垣の後と、投げ捨てられた石群。幕府軍は人と石を堀へ投げ入れたとある。
 
 一夜城の遠景。手前の花壇が美しい。地元の農家の方が働いておられた。
 
 原城本丸跡の標識
 
 
 長崎の歴史と旅の風景16

 長崎の街と港を高台から見ると。
 
  長崎は港町であり、また山の町でもある。
 市内には平地はほとんどなく、また坂の町でもある。
 今回、よく晴れた2月のある日、鍋冠山山頂から港を撮り、さらに、風頭公園から眼下に広がる町と港を撮った。ほとんどビル林立の殺風景な街だが活水大学の洋館も見える。、なかなか、この山の上までは普段はいかないことから、珍しいものとなっている。

 
  風頭公園から、稲佐山を見る。途中はマンションのビルがまさに林立している。風情のある歴史ある長崎の街並みも、今や昔だ。
 
 風頭公園展望台から、港を見る。女神大橋が見えて、その先が三菱香焼造船所が見える。カメラマンの背中には、坂本竜馬の巨像が立って、遠く海の向こうの西洋を見ている。
 
 鍋冠山から港を見る。正面が常盤緑地公園とその先が大波止、出島、旭大橋が見える。
 
 鍋冠山から活水大学、その下が、東山手の洋館群。
 
 鍋冠山から眼下は大浦町と、正面に市の中心街が見える。
 
 中華街はランタン(中国提灯)で色も鮮やか。新地中華街。
 
 、ランタン(中国提灯)祭りの馬の飾り物。みなと公園。

 
  長崎の歴史と旅の風景15

 軍艦島、加害の歴史と今

端島.
  長崎港の沖合10キロに浮かぶ端島。通称「軍艦島」である。
 1883(明治16)年、深堀藩主の鍋島氏が第一立坑を開く。岩礁だけの瀬を石炭採掘のために埋め立てできる。その後、三菱社が買収し、三菱高島鉱業所・端島抗となる。これが始まりである。

この島には最盛期5000人を超える住民が住み、日本一の人口密集地とされるほど賑わった。しかしエネルギー革命で石炭が石油に変わる1974年、炭鉱が閉山し、この島は無人島となる。いまここは世界産業遺産登録として観光で有名だが、しかし、戦前のここは、地獄の島とも呼ばれるほど、厳しい炭鉱の島だった。

「軍艦島に耳を澄ませば」(著者・高實康稔長崎大学名誉教授)によれば、戦前には、この島に500人の朝鮮人が強制連行されて働き、138人が死亡したと書かれている。まさに、日本経済と産業を支えた島であるが、その陰では、こうした暗い過去があり、ある意味、アジアへの加害の島でもある。1946年に三菱の会社が外務省へ提出した文書によって、204名の外国人の強制連行者の氏名が判明している。これが史実である。


 いま日本は、南京大虐殺はなかったとか、従軍慰安婦に軍の関与はなかったとか、戦前の加害の事実を認めない歴史観が復活しているが、これは加害を隠し、戦争を正当化するのみならず、次の戦争への布石でもある。大阪の橋下市長らが言う「慰安婦制度はどこでもあった」という論理は、加害の自覚のない者の許しがたい無責任な暴論である。
 アジア諸国からするなら、加害者の日本に、「おまえからだけはいわれたくない」と思う言葉だ。なにせ、日本は足を踏んだ(侵略)国であり、踏まれた人は絶対に忘れないからだ。

 大戦の終わりのころ、端島の対岸、約4キロ先の野母崎、高浜の海岸には、端島から泳いで逃れようとした多くの朝鮮人の遺体が流れ着いた。地元の南越バス停近くの国道沿いには、長崎市の吉田義輝元市議が建立した「南越名海難者無縁仏の碑」が立ち、また、韓国人海難者を弔う社が、高浜健康ランドの脇の浜に建てられている。当時の人が無縁仏として埋葬したからだ。

 強制連行と原爆での被爆をうけながらも、九死に一生を得た徐正雨(ソ・ジョンウ)さん(2001年逝去)は、自らこの証言者として、強制連行を告発しづけてきた。
 彼は、わずか14歳で朝鮮(慶州南道宜寧郡)から連行され、端島炭鉱で強制労働ののち三菱長崎造船の幸町寮に移って被爆した。19837月に岡正治先生とこの端島を訪ねたとき徐さんは、「・・・堤防の上から遠く故郷朝鮮の方をみて、何度海に飛び込んで死のうと思ったかしれません。仲間のうち、自殺した者や、(対岸の)高浜へ泳いで逃げようとして溺れ死んだ者など、4050人はいます。私は泳げません…」と語ったと「原爆と朝鮮人」(第2集)に岡先生は書いておられる。

こうした人の声に耳を傾け、いまも端島の地で苦しんだ人の思いと、この加害責任を自覚し、自らしっかりその責任を果たすことなしに、近隣との友好は成り立たない。ましてや世界遺産登録そのものも、正しい歴史観の上に存在する世界共有の遺産なのだから。

端島観光に行かれる場合も、こうした痛みを思いながら見学をしてほしいと願う。


 
 野母崎町の半島の最先端・権現山山頂から見た夕日の端島。
 
 端島観光ツアーの船、ガイド付きで4000円。上陸見学は小一時間で、往復とも3時間の行程。常磐町桟橋。
 
 壊れた建物をガイドさんが案内してくれた。当時の炭鉱夫の賃金は、県庁マンの平均給与の8万円に比し、50万円はとっていたと説明があった。20代の郵便局員は3〜4万円ほどだったともうが・・・・。大インフレ、大バブル期で、一年で賃金が30%くらい上がったころだ。
 
 命の階段と言って、この階段を上って坑口にたち、そして生還することを信じて炭鉱夫は地の底へ降りた。深さは500Mを超えたという。
 
 社員住宅跡。当時としてはしては日本一の鉄筋住宅だった。最盛期5000人が働き、人口密度は東京の9倍だったという。
 
 70年代初め、まだ郵便局も島にあったころ、全逓の端島分会があったことから、幾度か島に渡った記憶があるが、まさか40年後にこうなるとは当時は想像ができなかった。端島郵便局は港の入口付近の市場のそばにあり、非常に町も活気があった。職員は局長も入れて4〜5人だったと思う。
 
 本当に大きい船のような感じもする。西の沖合から見る端島の岸壁。
 
 高浜の海岸から見た端島。戦艦「土佐」に似ているところからこう呼ばれたともいわれる。この軍艦は長崎の三菱造船所で作られた船であり、軍需産業の町長崎を象徴する出来事でもある。直線距離で5〜6キロか。
 
 国道499号線、高浜の南越バス停付近にある慰霊碑1
 
 慰霊碑には「南越名海難者無縁仏の碑」と書かれている。
 
 高浜健康ランドのそばの浜辺に立つ社
 
 高浜健康ランドのそばの浜辺に立つ社2
 
 
 長崎の歴史と旅の風景14

 長崎の隠れキリシタンの教会群

 日本のキリスト教伝来は1549(天文2)のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して始まった。スペインやポルトガルとの交易を求める織田信長らの庇護で、急速に布教が広がるが、しかし、信長の死後、関白となる豊臣秀吉は、キリスト教布教の背後に日本国侵略があるという理由で、禁教令を出す。1587(天正15)年ことだった。それは徳川幕府になって一層強まり、1634年の島原の乱で、幕府は鎖国を敷き、外国の宣教師はい本にはいなくなる。以来287年間、日本の信者は隠れキリシタンとして信仰を守り続けるが、厳しい宗教弾圧の時代が続いた。26聖人が処刑された西坂の丘だけでも、500名余の信者の殺害がなされたと記録にある。
 日本が鎖国を解き、1884(慶応元)年にフランス人宣教師(プチジャン)が26聖人追悼記念聖堂(通称、大浦天主堂)を長崎の南山手の丘に作る。当時はまだ禁教令下であったが、大浦天主堂を訪ねた浦上の信者家族などが、司祭に信仰を打ち明ける。287年の長きにわたり信仰を守り続けた人々の存在は、奇跡の信徒発見として世界に発信される。
 だが、長崎奉行やその後の明治政府もこれを許さず、浦上4番崩れという大弾圧をかける。浦上の4か村の300数十人が遠く広島などへ流刑の処分を受ける。だが、西洋の国々はこれに強く抗議し、1874(明治4)年、ついに政府は禁教令の高札を取り外し、流刑を解き、信者は浦上の地に帰る。
 こうした人々を隠れキリシタンと呼ぶが、今は大半が、キリスト教徒であるが、当時、これを拒み、「隠れ」としてみずからの独自の信仰を守っている人たちが、今なお長崎にはいるそうだ。
 この教会群の写真は、いずれも明治以降のそれであり、正式に言うと「隠れキリシタン」の教会ではないが、今なお、長崎の山奥に集団で信仰を守る人々であることは、過去の厳しいキリスト教徒弾圧の名残であろうか。

  

 長崎港入り口にある神の島。今陸続きになっているが、この土地には信者も多く存在する。この教会は、俳優の加山雄三の父で、映画俳優だった上原謙が結婚式を挙げたことで有名になった教会で、今も年に50組の挙式が行われているという。

  教会群の写真はここをクリックしてください。


 
 
 長崎の歴史と旅の風景13

 長崎の石橋群とお寺の散策

 長崎は日本で2番目に石橋が多い県である。(一位は熊本)。中でも長崎は日本一古い眼鏡橋がある町でもある。1630年代にかけられた石橋は、いくつかが今もなお健在である。市内の真ん中を流れる中島川には多くの石橋が現存するが、どれも風情ある橋だ。全長3キロに満たない短い川だが、20本近くの橋がかかる。それを見てみよう。



 長崎を代表する石橋。日本最古の建設で、1643年にできたとされる。

 その他の石橋群はここをクリックしてください。
 
長崎の旅の風景


  ロシア人居留地と稲佐界隈
  
 明治の初め、長崎港はロシア海軍が多く立ち寄る基地があった。そこは長崎でいうなら対岸と呼ばれる稲佐地区であった。このころ浦上川には橋がなく、大波止から船で渡っていた。1969(昭和44)年まで、渡船は続いていたことから、稲佐側を対岸と呼ぶ。稲佐にはいまも国際墓地があるが、当時、ロシア人居留地として栄えていた。いま、地区には、その観光案内の看板などが所々にかかっている。今でいう、旭大橋の下りたところ付近に船着場があり、多くの料亭・遊郭などがあった。いまも、稲佐には遊郭を思わせる建物がある古い町である。
 1891(明治23)年。ロシアのロマノフ王朝の皇太子ニコライ2世が長崎を訪れている。ニコライ2世はロマノフ王朝の最後の皇帝であり、ソビエト革命のとき、処刑され、王朝は300年の栄華の歴史を経て、途絶えた。その名残は当時の首都・サンクトペテルブルグにある、エルミタール美術館に残っている。
 長崎で開かれたニコライ皇太子の来日歓迎式には皇族も参加し、国賓待遇だった。かれは、滋賀県大津市で警備の警察官に襲撃されて、けがをしている。明治天皇が京都まで出かけてお見舞いをした。シベリア鉄道の起工式に出席するという目的の日本への旅だったが、彼は長崎を気に入り、8日間滞在している。この稲佐へもよく船で渡ったと記録がある。べっ甲店の老舗、江崎べっ甲店にニコライ2世の写真があり、彼のサインが書かれている。べっ甲細工で作ったロシアの軍艦を寄贈したお礼に、皇太子が送ったものだ。彼の帰国後、日露戦争が勃発し、この事件が影響しているというが、皇太子は、自分を襲撃した警官を取り押さえた車夫に対して、生涯年金を送ったというので、事実とは異なるようだ。
 1990年頃、まだソ連だったゴルバチョフ書記長が長崎を訪れたときも、この稲佐のロシア人墓地へ慰霊のためにきている。そのとき、狭い道路わきにはすごい人が歓迎したが、そのバカでかい車と、車列の長さに驚き、警備のロシア警察官が、車から身を乗り出し、銃を構えたまま、鋭い目つきで市民を威圧した光景は、今も忘れられない。
 いま、悟真寺裏の山手にある墓地に眠る多くのロシア人は、遠い異国の長崎で命を失い、100年も故郷に戻ることなく眠っているが、咲き誇る桜を眺めながら、ロシアの変貌振りに心が揺れてはいないだろうか。

 旭大橋の下から見る船着場あとの階段。
旭大橋の支柱。ここが海だった。
昔の名残、赤レンガ塀 旭町の階段。下が船着場だった。
幕末のロシア村の観光看板がかかっている  稲佐国際墓地の案内標識
悟真寺の脇に、歌手、福山雅治の旧実家。   ロシア人墓地。ゴルバチョフも参拝した
長崎で一番古いお寺、悟真寺。竜宮城かな 登山道路わきにある遊郭作りの町並みが並ぶ

      
 
 長崎の歴史と風景のたび11
300年前の五島、久賀島を訪ねて 忠臣蔵、47士生き残り、寺坂吉衛門伝説の寺を発見

  1702(元禄14)年、忠臣蔵の吉良邸討ち入りと、長崎版「忠臣蔵」討ち入り事件(長崎喧嘩騒動)は、本当はつながっている、という伝説が、深堀藩の義士伝として残っている。長崎屋敷に討ち入った1人の志波原羽右門は、江戸幕府の命により、五島・久賀島へ流刑・遠島になる。そこへ一人の男が訪ねてきて、長崎討ち入り状態を聞いて帰った(「長崎の伝説」から)。そして、忠臣蔵=吉良邸討ち入り後、1人、大石の密命を帯びて、事後報告へ走るために切腹を免れ、生き残った寺坂吉衛門。その伝説は日本各地に7箇所(東京、仙台、伊豆、島根、八女、出水、五島)あるが、その寺坂がこの五島久賀島に来ているというのだ。こうして江戸の忠臣蔵と五島、久賀島、深堀義士がつながる。

 忠臣蔵事件後10年を経て、久賀島を1人の男が訪ねる。そして流刑となっていた深堀藩の武士を訪ねるが、志波原は流刑を許され、深堀へ戻っていた。しかしその男は久賀島の寺=恵剣寺に住まい、僧となり、島内を托鉢しながら、義士の霊を弔った後、没する。その際、枕元に檀家を呼び、「自分は赤穂藩士の寺坂吉衛門である。志波原様を訪ね、討ち入りの手順を教わったお礼を述べたかったのだ」と語ったという。

 寺坂の墓石がある久賀島・福見の恵剣寺には、47士赤穂義士伝の縁起が書き残されている。それによると、恵剣寺は江戸・泉岳寺(浅野家の菩提寺であり、47士の墓がある)の僧であった寺坂随天が元禄の初めに創建したとある。この寺坂随天は赤穂47士の1人、寺坂吉衛門の弟であり、その縁で、この島を吉衛門が訪ねたとある。あだ討ちが同じ頃であり、深堀義士伝と赤穂義士伝が関係してると、伝説的に伝えられているのだろう。

 それから300年。07年11月の秋の日。福見の里を訪ねた。長崎から福江へフェリーで4時間でわたり、そこからもう一度、福江から久賀島へフェリーでわたった。また1時間だ。フェリーを降りて驚く。家が見当たらない。バイクで前の車について必死に走る。約10分。5キロほど、家並みが見える。島の中心、久賀町だ。そこからまた5キロ。島の反対側の町・蕨につく。そこからまた山道に入り約3キロ。狭くて暗い車一台がやっと通れるほどの道だ。
 山から海へ、海から山へ。すれ違う車も人もいない。10分ほど走り、里に出た。畑が見える。家や人影はない。町の標識がある・福見という集落だ。やっと来た。朝、8時にフェリーで長崎を出発して、6時間半。めざす福見の里。しかし、人影もなく、寺を探そうにも方向もわからない。

 山道を200メートルほど行ったら、畑に女性がいる。声をかけた。「恵剣寺はどこですか」と聞く。すると女性は、近くの家に「○○さん、人が来たよ」と声をかけてくれた。するともう1人の女性が家から出てきてくれた。わたしは「恵剣寺はどこですか」また聞いた。女性は「そこです」と向かいの小さなお堂・家を指さす。
 物語では見ていた、300年前の伝説の恵剣寺が眼前にある。大きい感動だ。細い道を恐る恐るだが走ってきてよかった。寺の隣の人は「ときどき人がたずねてくる」といった。平家伝説に続き、東京の泉岳寺の兄弟寺として、由緒ある寺だと言う。彼女は「弟がいるともっとよくわかるのですが」といった。たぶん寺の住職だろう。「参ってやって下さい」と彼女に促され、なかに入る。壁に1700年頃の泉岳寺との縁起・由来が書かれている。忠臣蔵の寺坂吉衛門がこの寺に来たことなどが書かれている。伝説はこの島では生きている歴史なのだ。

 バスもなく、自分の足で歩くしかいけない福見。人の気配も薄い里。こんな日本の西の果ての長崎から海路100キロの五島。なかでも久賀島のまた行き止まりの里。ようやくたどりついた。しかし、300年間、寺坂はここに眠っているのだと思うと、1701年頃に起きた二つの討ち入り事件もなにか身近になる。深堀に眠る義士。志波原羽右門に報告したくなった。

 フェリー久賀。福江から約40分ほど走る。  久賀島の海岸通
 福見の里。恵剣寺がある。 港近くの浜脇教会。新しいもの。
 里山。この奥に恵剣寺がある。 恵剣寺。  
恵剣寺(栄健寺)の額がかかっている。  堂内にある、赤穂義士縁起の額縁


   

 長崎の歴史と旅の風景10

  長崎の戦争遺跡を訪ねて
  川棚の人間魚雷特攻基地あと

  先の大戦は長崎の原爆被爆という大きな傷跡を残している。7万余の戦闘員でもない一般の人を一瞬のうちに殺した原爆は、無論許されない非人道的殺人行為である。厳しく糾弾されることは当然である。
 こうした戦争の非人道性は、日本にも多く存在した。いわゆる特攻攻撃である。アメリカの記録では自殺攻撃と書かれているが、自殺ではない。国と軍に命令され、特攻しか許されない環境の下での特攻だったのである。今、これを美しいとか言う馬鹿な政治家もいるが、一人の国民が命を投げ出すしか生きていけない戦争という悲惨さを知るために、長崎県の川棚を訪ねた。
 ここには2千余の海の特攻攻撃による死を命令された若者が出撃した訓練基地あとと、慰霊碑がある。一人乗りの潜水艇に乗り込み、戦艦に体当たりする人間魚雷の訓練基地跡が今も川棚には残る。国道205号線沿いに海側に入る。片島半島と呼ばれる小さな海辺だ。鹿児島の知覧とは違い、自治体による保存工事も少なく、また基地あとを示す標識も特別にはない。いわば忘れられた基地あとであり、廃墟と化している。しかし、62年前、数万人がここで訓練を受け、2千余の人が現実に出撃し、帰らぬ人となっている、と、慰霊碑には書かれている。全ての人の名前が石碑に彫られている。20歳前の若者が、家族と別れて殺人のための訓練を受け、自らも死んでいく姿に、戦争の悲惨さを思う。あらためて、基地あとに立ち、特攻とはなにか。戦争とはなにかを考える。 

本館、建物の基礎部分は今は修復されて新しくなっている
 
 台風で橋が壊れ、今は渡れない監視塔。
魚雷発射台あと
 
 本館内部。草木が生い茂っている
 空襲の銃撃の傷跡。戦争の兵器工場の町であった川棚は、1945(昭和20)年730日、米軍の空襲を受ける。敗戦間際の空襲で69名の死者が出たと郷土史には書かれている。 
 
 片島の全景。国道の展望台から
国道から見る魚雷発射場後
 
 国道脇の小串展望台から見る針尾島の無線塔あと。12/8太平洋戦争開戦の暗号指令「ニイタカヤマノボレ」はここから発信された。長崎は太平洋戦争でも加害の歴史がある。大村湾入り口、西海橋そばにある。
 
 
 
敗戦の傷跡、JR(国鉄)南風崎駅。中国大陸に渡った日本人は敗戦で日本へ引き揚げた。九州は博多と佐世保の針尾島の浦頭港であった。南風崎の駅にある掲示板には引揚者総数629万人。佐世保の浦頭には140万人と書かれている。生きて帰れた人は上陸地点の浦頭から7キロをこの南風崎の駅まで歩き、列車でふるさとを目指したという。今その彼らが歩いた針尾島はハウステンボスに姿を変えている。わずか60年ほど前の長崎の姿である。

              

長崎の歴史と風景の旅9
長崎の町の発祥地付近、長崎公園散策

 長崎の町は1571年の開港前までは、小さい漁村にしか過ぎない町であった。お城は今の桜馬場にあり、領民はそこを中心に1500人ほどであったとされる。今の新大工、片淵と桜馬場付近は、まさに長崎の発祥の地である。
 今の諏訪神社と勝山の長崎歴史民族資料館付近には、長崎奉行所あと、長崎会所あとなどがあり、長崎の町が開かれる頃の起点となった。また資料館のすぐ上隣、立山公園には戦争時に軍の司令部や県庁等が避難した防空壕あとがある。また、長崎公園には県立図書館があり、静かな地域となっている。日銀も大きな姿で通りに面しており、いい散歩コースである。近くの諏訪神社には長崎の領主、長崎甚左エ門の銅像が、長崎の港を見下ろしている。436年昔に長崎の今が始まるが、いろんな意味で激変の長崎の町の歴史である。
 
  
 長崎甚左エ門の像、丸馬場にある。        長崎公園入り口の門

  
  道路に真ん中に大きな楠、車も負ける。    写真家の祖、上野彦馬像。

  
  県立図書館。1960年にできた。         立山の防空壕。軍や県庁が避難した

 
  日本銀行の正面。
長崎の歴史と風景の旅8
1571年長崎開港の頃


  
  旧大村藩主大村純忠によって開かれた長崎の港。領主は長崎甚左エ門であった。時津にある彼の墓には、長崎開港の祖とある。上の写真は、横瀬浦記念館にある、長崎開港の頃の長崎6町の復元図である。平戸町、島原町、大村町、横瀬町、などが見える。この半島の右の先が現在の県庁がある外浦町で、その先が後の出島となる。


  長崎の町はいつできたのか。
 1222年。鎌倉幕府が崩壊し、天下分け目の承久の乱で勝利した室町幕府ができる。幕府は戦に功績があった豪族に領地を再配分する。そのとき、関東の長崎一族が、任地として移り住んだとされる。以来14代=350年の時間が流れるが、その頃の長崎は、1500石で、人口も1500人ほどの寒村だったとの記録がある。お城は桜馬場の上の城の古址である。町はその付近を取り巻くだけで、今の諏訪神社と諏訪小学校から県庁までの約一キロは、森崎という名で呼ばれた細長いただの半島であった。
 ポルトガルは松浦藩と衝突し、平戸を追われ、貿易港を探し、横瀬、福田、口之津と港をめぐる。しかし、ようやく1571年長崎に決める。領主長崎甚左エ門は大村藩の娘婿という姻戚にあり、大村藩に所属していた。大村純忠は、この森崎に6つの町を作り、港町を作る。大村、島原、五島、平戸の各藩に人を派遣してもらい、それらの町が始まる。6町の地名の由来である。
 当時竜造寺家は九州一の権勢を誇り、しばしば、大村領へ攻め込み、合戦は15度に及んだと言われる。 大村純忠は、貿易港開港で、利益を上げるが、また竜造寺家との合戦で疲れ、キリスト教会にこの6町など寄贈し、守ろうとした。
 現在の桜町の陸橋付近は、今橋でつながっているが、昔は半島で陸続き、つながっていた。大村藩が竜造寺家を引きついた鍋島藩の支藩となった、深堀の深堀(鍋島)藩と諌早の西郷藩の連合軍との戦いで、陸を切り離し、海水の堀を作り、天然の堀として6町の防衛に使ったとされる。この最後の決戦で、勝利したときに、この森崎の地名を勝山としたといわれる。
 1588年、豊臣秀吉が全国を統一し、九州の再配置を命じる。島津征伐に距離を置いた竜造寺は追放され、家老職だった鍋島藩へ国替えとなる。大村純忠はキリスト大名だったが、九州征伐に協力的であったと言うことで、そのまま残るが、6町はキリスト教会派の領地であることを取り消し、天領として取り上げられた。長崎一族はキリシタン禁止令とともに、キリシタン大名であったために追放される。長崎甚左エ門は、横瀬とか福岡とかを転々とするが、時津・浜田町のジャスコの奥の丘に墓が現存している。町は略歴と案内板を立てている。

   
  桜町の陸橋。堀を作るために陸地を削り、堀として、海水を入れた。(左)。長崎氏の居城、鶴の城の跡、城の古址。(右)。

  
  禁教令で壊されたサントス教会あとに建てられた春徳寺と、サントス教会あとの看板。

    
   西彼・時津町浜田郷のジャスコの奥にある第14代長崎甚左エ門の墓。(左)と、西海市横瀬浦にある旧長崎甚左エ門の居宅あと(右)。横瀬浦は、長崎開港の前にあった町で、丸山、思案橋とかの地名はここからきているという。
長崎の歴史と旅の風景7 

長崎市銀屋町界隈、 めがね橋付近散策


 
日本労働運動の父・高野房太郎、 岩三郎の生家付近探索


                  
             ●銀屋町付近の中島川にかかる日本最古の石橋。めがね橋。
          1637年頃架設。1982年の長崎大水害で一部が流失し、修復された。

@銀屋町とは
 江戸時代。1630年代の長崎の大火で長崎の8割は焼失した。代官の命令で新しい街づくりが始まり、中島川沿いに碁盤の目の長方形型の長崎の町つくりが行われた。銀屋町も77ケ町のひとつとして誕生する。1965(昭和41)年に新区画整理と町名改正で銀屋町は古川町と変わるが、2006年1月、全国で二番目の特例として、銀屋町の名前が復活した珍しい町である。当時も今も200戸足らずの、中島川から寺町通りの300メートルほどの、たった一本の通りしかない小さい町である。
 しかし、そんな小さい町に、なぜこうしたすばらしい先達が輩出したのか、不思議でならない。付近を歩くと、なにか、勇気がわいてくるような感じすらする、いい町である。
 それというのも、すぐ近くの古町にある光永寺というお寺に、江戸末期、福沢諭吉が二年間滞在し、学んだという石碑もあることから、なにかしら、中島川沿いには進取の気運が漂っているのだろうか。いい散歩コースです。

 
  
 銀屋町は寺町通りと中島川の川端通りにはさまれた小さい町で、大音寺(右)と皓台寺(左)が、すぐそばにある。付近には日本開国の最大の功労者シーボルトの娘で、日本初の女性医師、楠本イネの墓もある。
  


A高野房太郎・岩三郎兄弟
 高野房太郎は1868(明治元年)に長崎市銀屋町18番地に生まれた。現在の3-17番地付近と思われるが、生家はない。めがね橋のすぐ下の袋橋の通りが銀屋町であり、今でも地元の自治会の掲示板=銅版にはしっかり名前が記載されている。弟の岩三郎は3歳年下だが、兄弟は隣町の磨屋小学校へ通った。10歳のとき、父母がおじを頼り東京へ出て、長崎屋という旅館などを経営するが、大火で焼失し、家も傾き父も病死する。17歳のとき単身渡米し、働きながら学び、アメリカ総同盟に教えを受け、労働組合を作りオルグとなって帰国する。1897(明治30)年に日本初の労働組合期成会を結成し、またアメリカ型の生活協同組合を日本で初めて作った人でもある。弟の岩三郎は東大の教授となるが、招かれて、大原社会問題研究所の初代所長となり、働く人のために生涯を尽くした。戦後NHKの会長を勤めた人でもある。
 その意味ではこの兄弟こそ、日本労働運動の父であり、生みの親でもある。一般に社会主義と一線を画したため、左派労働運動史には同世代の片山潜らと比較し、扱いは低いが、日本労働運動の父であることは間違いない。このように身近にわが長崎にこのような偉人がいたということは、誇りでもある。先輩たちの話によれば、30年ほど前にこの高野の孫という人が長崎の某会社に働いておられたという話があったが、確認は取れていない。ただ、房太郎は若くして中国で客死し、女の子どもがいたという記録があることから、「高野」姓ではないのだと思う。

 
 4・28原告団の名古屋、池田さん。めがね橋そばで。3/26、4・28勝利報告九州連鎖集会は、この地、高野生家付近散策で始まった。4.28の勝利を、日本労働運動の父に報告できただろうか。 
  

B上野彦馬
 上野彦馬は江戸末期に銀屋町で生まれ、カメラ技術をオランダ人から学び、自力で写真機を作り上げた日本人初のプロの写真家である。よくある坂本龍馬のブーツを履いた写真は上野が撮ったものとされる。彼の銅像はめがね橋の付近に建てられている。
   

C森敦(芥川賞作家)
 森も大正元年に銀屋町で生まれた。「月山」で芥川賞を受賞した作家である。

 
 銀屋町通り。このすぐ先にめがね橋がある。

    


長崎の風景6

長崎の歴史的事件1 深堀喧嘩騒動


大音寺坂(通称、喧嘩坂)、左が検察庁、上が県庁通り

下、坂の上から見た大音時(喧嘩坂)


 @、江戸時代、安泰の世を揺るがした最大の事件は、1702(元禄14)年に起きた赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件だろう。忠臣蔵で有名なあのあだ討ち事件だ。長崎ではこの1年前、深堀藩士による高木邸討ち入り事件が起きていた。一説によると、大石内蔵助はこの高木邸討ち入りを参考に、吉良邸襲撃を行ったという話が、深堀はもちろん、遠く、五島の久賀島にも、いまも伝説として残る。


 A、長崎の討ち入りは深堀藩士で、相手は長崎町年寄の高木彦右衛門の屋敷である。高木家は代々町年寄を勤める名家であった。当時、長崎は天領であり、幕府直轄の長崎奉行が支配していた。いわゆる1000人警護と称され、1700人ほど役人、武士がいた。その中で、町年寄は、奉行の命を受けて、行政の諸事を行っていた。今で言うと長崎市長職で絶対の権勢を誇っており、高木家はおよそ200名ほどの浪人や武士が警護のために雇われていた。史実では長崎は鎖国下の日本で唯一の貿易港であり、それを取り仕切る高木家の力は当時の13万石大名と同じほどの経済力であり、町民ながら名字帯刀を許され、8000石の深堀藩など足元にも及ばぬ権勢であったとされる。ちなみに、当時は石高一万石から大名とされ、一万石の大名は家来を250人もてたとされる(漫画、半蔵の門、小池一夫の説)。一石は10斗=100升であり、いまの日本人1,5人が食べる年間の米に匹敵する
     (深堀藩屋敷あと)


 
 B、事件の発端は、深堀蕃の老人の武士2名と高木家の中間が、いまの万才町の検察庁横の大音寺坂ですれ違う。雪道で老武士がすべり、泥が中間の衣服にかかる。老人は謝るが中間はこれを許さない。仲介者がおり、いったん納まるが、その日の夕刻、高木邸の雇われ人たちが、五島町の深堀藩の屋敷に乱入し、乱暴を働き、老武士の刀を奪い取る事件が起きる。
 直ちにこのことは10キロ離れた深堀の老武士の自宅に知らされ、老武士の長男以下10名が、五島町に駆けつける。そこで討ち入りが行われることとなる。高木邸はいまの銅座町の東京銀行付近にあったとされるが、深堀藩からの後続の10名、計20名で高木邸に押し入り、高木彦右衛門の首を取り、刀を奪い返す。 その主、深堀三右衛門はその場で切腹し、また、もう一人の柴波原武右衛門は引き揚げの途中、いまの中央橋のうえで切腹した。

 C、この事件の裁定は、幕府により行われ、深堀蕃の他の9人は切腹。残りの10人は遠島。高木家はお家断絶とされ、深堀屋敷に押し入ったものは死罪、高木の息子は長崎追放が行われた。深堀藩士の行為は、武士の鏡とされ、とりわけ、佐賀藩の葉隠れ武士、「武士道は義により生き、そして死ぬことなりと見つけたり」の典型とされた。また幕府から見ると、日本三大奉行の一つ、長崎奉行の直属の配下を切られたわけで、しかも長崎警護役の深堀藩がこれを行うという許しがたい事件で、いわば面目丸つぶれであったが、裁定は「義挙」となり、鍋島家には責任なし、彼らの行為は褒め称えられた。 いまも深堀の菩提寺には、この義士たちを称える墓碑があり、生花が飾られている。

       深堀義士の墓、今も生花が飾られている。

 D、事件の発端は単なる町の酔漢相手の喧嘩だが、この階級社会で町人がなぜ武士に向かって、しかも長崎警護役の屋敷に乱入し、乱暴狼藉したのかは、高木家のおごりが背景にあるとされる。もともと長崎は長崎甚佐衛門の支配地(1500石)であったが、豊臣秀吉がキリスト教禁止令や外国貿易のために、天領とする。長崎甚佐衛門は当時長崎を支配していた大村藩の大村純忠の娘婿であり、佐賀藩の鍋島、同じく諫早の西郷氏、深堀の鍋島家とは対立関係(幾度も戦火を交えている)にあった。深堀藩は鍋島家の支藩であり、代々鍋島姓を名乗っている。この経済対立関係が、深堀騒動の根底にあるといわれる。

 E、この深堀騒動、討ち入りと赤穂浪士の討ち入りがなぜつながるのかは謎だが・・・・。
 一つは事件が1701年と翌年に起きていること。
 二つは、赤穂47士のうち、唯一の生き残り、寺坂吉右衛門が討ち入り前に、遠く、五島の久賀島を訪ね、遠島・流刑の身の志波原羽右衛門を訪ね、討ち入りの詳細を尋ねたとされ、これを大石内蔵助に報告し、内蔵助は吉良邸討ち入りの手本としたとされる。また二度目はそのお礼と報告のために久賀島を訪ねるが、志波原はその前年、9年の遠島を許され、深堀に戻っていた。しかし、寺坂は、久賀島の福見の里の恵剣寺に住みつき、生涯を終えており、寺も墓碑もあるという。この伝説が今も五島には残るからである。(寺坂伝説は全国にもあるが・・・)。


 400年の歴史を超えて今も残る五島、久賀島の寺、恵剣寺。



 F、ではほぼ1年を前後し、あいついで起きた事件でありながら、一つは300年もの長い歴史に、日本最大の事件=快挙とされる赤穂浪士の討ち入りとされ、歌舞伎や芝居、テレビで語り続けられるのに、その下絵とされる長崎の討ち入りは、なぜ長崎の人にも語りつがれていないのか。
 理由は、忠臣蔵は事件が江戸城を舞台とした刃傷沙汰で、大名が切腹した大事件であったことだろう。一方長崎では武士が町民を討ったからで、さほど、判官びいきの日本人の心に響かなかったのだろう。いくら高木家が幕府の覚えめでたく名字帯刀を許される名家であったとしても、それは金力=賄賂によるものであり、公的な身分ではなかったことがあげられる。
 それと、いくつかの喧嘩騒動の本を読むと、高木家の横暴ぶりは相当なもので、長崎の町民にも高木家は評判がよくなく、長崎人も高木側に立ちにくかった理由がある。
 また、長崎(大村)藩の町民が敵対する佐賀藩にやられた「不名誉」であり、長崎側から見ると、語りつぐ気にならなかったのではないか。その証拠に、深堀騒動という呼び名も、深堀側がつけたものであり、高木側(長崎)からするなら、武士が大挙して町民の家に押しかけ、主の首を取ったという事件であり、納得いかない面もあるだろう。「家来の乱暴は主の責任」と迫る深堀の言い分だけでは、史実が見えないのではなかろうか。
 それだけ、長崎の町が町人自治の支配であり、ある意味、町人が武士より豊かに、力のある生活をしていたという反面の証明であり、江戸幕府にしてみれば、階級的意義が見えない事件だったのかもしれない。
 

 G、話は少し外れるが、長崎人は、お盆の精霊流しやお宮日大祭で莫大な浪費をする慣わしがある。これは当時の長崎の町は天領だったために納税義務がなく、また、長崎会所からの毎年、益金の配当金(箇所銀、かまど銀)が町民にも配られた。さらに、唯一の貿易港としての表の顔と、裏で莫大な密貿易(ぬけ荷)の仕組みがあり、長崎市民は大なり小なりその恩恵を受けていた。またそうした華美を許される背景には、キリスト禁教令を受け、神仏行事に奨励を求めた幕府の方針もあったと思われる。いずれにしても当時の長崎は、日本一自由で、自主的な豊かな生活を送っていたことはほぼ間違いない。
 徳川幕府は自らの所領の400万石の財政でまかない、全国一律の徴税法を取っていなかった。各藩が税は自由に決め、徴収していた。したがって天領である長崎は殿様がいないわけで、無税となったようである。


H、参考文献
 1、長崎喧嘩騒動(深堀義士伝)、新風書房、坂本勉
 2、犯科長、長崎奉行の記録、岩波新書、森永種夫
 3、長崎喧嘩録、創芸出版、江口功一郎
 4、長崎の伝説、角川書店、福田清人
  5、長崎歴史散歩、創元社、劉 寒吉
 6、肥前歴史俳句漫歩、長崎文献社、松尾たけし
 7、肥前街道を行く、葦書房、松尾卓次


I、長崎の歴史

西暦 和暦 事件
1222 貞応元 承久の乱の直後、室町幕府の再配置の命を受けて、長崎小太郎、長崎に来て桜馬場の上(城の古址)に鶴の城を作る。同じく、深堀藩もこの時期、千葉県から任地がえで深堀、長崎半島一帯を与えられ着任。
1571 元亀2 長崎開港。大村純忠6町を、いまの県庁通りの(森崎)半島に設ける。長崎仁左衛門が領主、1500石、人口1500人。
1587 天正15 秀吉のキリスト禁教令
1588 天正16 豊臣秀吉九州征伐。長崎を天領として、佐賀鍋島に代官を命じる。当時の長崎は16町。
1592 文禄元 初代長崎奉行に寺沢志摩の守がつく。当時長崎は23か町。役職名の長崎頭人を町年寄と変更。
1596 慶長元 26聖人、西坂の丘で処刑。殉教。
1603 家康のキリシタン禁止令。キリスト教徒の長崎甚左衛門純景(14代)鶴の城を追われる。
1615 元名元 諏訪神社設立。長崎の人口、24,693人。
1634 寛永11 出島建設へ。めがね橋完成。
1637 〃14 島原の乱。
1641 〃18 鎖国令。
1672 寛文12 長崎市77町。いまの中心地がほぼ出来上がる。戸数9,393.人口40、250人。
1689 元禄2 十善寺郷(いまの館内町)に唐人屋敷を作る。
1700 〃12 深堀騒動(高木邸討ち入り)起きる。
1702 〃14 赤穂浪士討ち入り事件。
1808 文化5 フェートン号事件起きる。長崎奉行、松平図書の守引責、自刃。
1823 文政6 オランダ医者シーボルト出島へくる。
1841 〃12 町年寄、高島秋帆が幕府へ大砲を送る。
1857 安政4 飽の浦に長崎造船所(三菱の前身)を作る。
1859 〃6 鎖国令解く、長崎、函館、横須賀開港。
1868 明治元 明治維新、長崎奉行廃止。
1872 〃5 明治天皇長崎を行幸。島原町を万才町に改称。
1873 〃6 キリスト禁教令を解除。

 

長崎の5本の峠道

  江戸時代の長崎は陸の孤島であった。佐賀から長崎へはいるためには、海路で彼杵から時津へ入るか、矢上から歩いて日見峠を越えた。日見峠は標高200メートルほどあり、東の箱根、西の日見峠と呼ばれた難所であった。日見峠の名前の由来はいくつかあるが、1600年代初め、長崎開港の頃、長崎は長崎氏が桜馬場の上付近に城を構える領地だった。大村藩の城主の娘婿で、貧しい寒村だったが、貿易で一気に儲けが始まる。佐賀藩の深堀と同じく佐賀藩の諫早の西郷氏がこの長崎を攻める戦争が幾度もおきた。このとき、佐賀藩は戦争を仕掛ける前に網場で盛んに焚き火を行った。その見張りのために長崎側がこの峠で焚き火を見たことから、「火をみる」場所ということで日見の名前がついたとも言われる。


 長崎街道の起点。長崎奉行所跡に建つ長崎歴史博物館、立山。昔の人はここ長崎から小倉間の230キロを4〜5日ほどで歩いたという。一日50キロ平均、すごい体力だ。

         

  日本を開いたシーボルトの鳴滝塾跡。日本国中から若者がこの地に集まり、学び、開国へと流れができる。シーボルトは日本に5年しか滞在しなかったが、影響は190年後の今も続く、まさに日本開国の聖地だ。長崎街道の長崎の町との別れ地点、蛍茶屋の近くにある。左、居宅と鳴滝塾あと。右、今の記念館



   長崎街道はいまのシーボルト通りとも重なる。前にそびえる山は英彦山386m。その山すそを抜ける道が日見   峠だ。このすぐ先が、長崎との別れ道、蛍茶屋だ。写真は中川町付近。

@、長崎街道の日見峠。

江戸時代に歩いて峠を越えた道。旧日見トンネルの真上を越える幅1メートルほどの山道、畑道で、階段も多い。途中山頂付近に関所跡という標識があるので、この狭い道付近に関所が置かれていたのだ。入り口と出口はそれぞれトンネルの真横付近にあり、長崎街道の標識がある。芒塚に松尾芭蕉の最高の門弟である長崎出身・向井去来の句碑が建てられている。江戸時代には東海道などの主要5街道があり、長崎街道はその下の脇街道と呼ばれた。

1820年代から全国の若者がシーボルトの鳴滝塾を目指して長崎へ歩いた。明治維新まであと40年。時代を変える夢が多く詰まった峠。それが日見峠だったのだ。そして夢を現実に変える大志を抱いて若者は長崎−小倉間230キロの道のりを5日でかけぬけ、京都、江戸へ向かったのである。

街道の山頂、幅1mもない狭い道。階段も続く。石垣が往時を忍ばせる。

A、明治新道、日本初の有料道路。
 明治15年に、新道株式会社によって作られた幅3メートルのほどの道。いまの聖母の騎士修道院に始まる本河内街中を通る市道となっている。日本初の有料道路、今長崎街道の日見峠越えに出る写真はこれが多い。切りとおしで、両山に木が茂り、薄暗い道で今でも山賊が出そうな感じである。このときの長崎新道株式会社が18銀行の前身とされる。当時は旧国道4号線で東京−長崎の一番の主要道であった。本河内の番所バス停と矢上の番所橋は料金をとった名残の地名だ。通行料は一人1銭で、地元の人はパスポートが出され、無料だったという。
 



  明治新道の日見峠の頂上越えの道  芒塚の方は360度曲がる九十九折が続く。運転に自信のない方は車でのお出かけは避けられてバスがいいでしょう。

B、県道116号線。(元国道34号)。大正、昭和期の国道。
 大正15年の国道改修工事で日本最大の歩行トンネル、日見トンネルができた。そのとき、鹿児島への道が3号線の幹線道とされ、長崎道は国道34号線となった。馬町交差点の新大工の入り口付近には、新長崎街道の標識がある。このトンネルで長崎は陸の孤島を終わった。長崎ピースサイクルはこの道を走る.

 

  旧国道34号線の日見トンネル、長さ680m 新長崎街道の標識がある馬町交差点。

C、平成バイパス国道34号線。

本河内水源地の西側をまたがり、御手水から左に折れ、芒塚の新山口までの間を二本のトンネルで結ぶ、平成に作られた新道。いま国道34号線となっている。
 

   本河内水源地をひとまたぎ、二本の道と新しいトンネルが山をぶち向く。矢上側は旧34号線の真上を高速   道路が走る。

D、高速、長崎自動車道。

  平成にできた高速長崎自動車道路。長崎トンネルと芒塚の谷の真上にまたがる巨大な夢大橋で、長崎−矢上の約10キロは10分ほどで通過する。1600年代の江戸時代、俳人、向井去来が長崎を離れるとき、日見峠まで見送ってくれた友人たちへ、「君が手も まじるなるべし 花薄(すすき)」と読んで、この地を芒塚と呼ぶようになったという。それから400年、その去来がこの道路を見たら、あっという間の別れにさぞかし驚き、「君の手も 見る間もなしに 枯れすすき」とでも詠むだろうか。
    
  34号線の真上を高速道路「夢大橋」が通る。 向井去来の句碑。400年も前に去来はこの道を歩いて京都へ向かった。

蛍茶屋から網場の腹切り坂まで日見峠は約6キロの峠山道だ。さすがにトンネルの上の上の昔道を越えるときは息が切れる。馬ががけから落ちるところから馬頭観音があるほどの狭さの山道は、旅人泣かせだったろう。1630年代、歴史はキリスト教禁止令から島原の乱を経て鎖国へ向かう。西洋と東洋をつないた陸路がシルクロードなら、その海路は出島へむかい、長崎街道が江戸へつなげた。長崎の出島は西洋の文明を大きく孕み、鳴滝塾を生み、社会を変える若者を育てた。その街道の歴史と思いが一番つまるところ、それが日見峠である。いまは時代ごとに5本の道が走るが、やはり一番古い峠道を歩いて越えて昔人を偲ぶのが楽しい。峠にたち東方向を見るとき、革命の舞台である京都と東京が見えるだろうか。


日本列島最南西端の 遠見番所から見る長崎

日本列島最南西端の岬の上から

長崎半島の最先端、野母崎町は長崎駅から南へ約30キロ。車で1時間のところにある。日本地図を広げれば、もうこの半島の先には五島列島があるだけで、本島では西の果てだ。写真の道標にあるように、ここからは中国の上海へ780キロ、東京へは950キロと上海の方が近い。戦前、長崎には上海航路という海上ルートがあり、出島まで鉄道があった。いまの長崎駅(尾上)−出島までの細長い道、元船遊歩道がこの跡地である。先年、上海航路が復活して、いまも昔も、長崎は広く世界へとつながる日本の要の位置にある。

この半島の一番先に海抜200メートルの権現山がある。幕府は江戸時代、島原の乱(1638年)以降鎖国政策を強め、外国船取締りの目的で、その頂上に遠見番所を置いた。長崎の港に入る外国船をいち早く見つけ、のろしをあげ、いくつかある見張り台=お台場を経由し、長崎まで知らせていた。この番所は長崎奉行が管轄し、番所の役人10人がいまの活水大学(東山手)の裏手にある役宅に住んでいて、十人町の名前の由来とも言う。この十人町は唐人居留地に隣接し、また出島を見下ろす位置にもあり、外国人の見張りも勤めたという説もある。この役人たちは、十人町を基点とする野母崎までの「みさき道」を歩いて仕事に通っていた。当時、その道は大浦石橋、二本松を通り、戸町中学校、土井の首、深堀を経由して脇岬の観音寺に通じていた。小さい道だが石碑などがいまも残る。

長崎の港を見張る番所は、その港口の西泊、神崎、魚見山、女神、国分などいくつかあるが、軍事要塞もかね、鎖国時代の日本を守る要所であった。野母遠見番所制札には元禄元年(1688年)、長崎奉行の名前で「遠見番は念を入れて阿蘭陀船、唐船の入津出帆の節は早速注進仕る可き事」とある。

ちなみに長崎の地は旧大村藩領であったが、1588年、豊臣秀吉が直轄の天領とした。貿易、キリシタン対策で長崎奉行を肥前佐賀藩主の鍋島に命じたことが始まりで、代々大名などが勤め、明治維新までの280年間続いた。長崎奉行所には役人が1000人もいる江戸幕府の重要な役所であった。

昔、このお台場から船を見張った長崎人は、現代、女神大橋の完成で、女神から神崎まで歩いて渡り、外国船の入港を、海抜62メートルの橋の真上から見下ろすことができる。また、みさき道の途中には、いまの端島=軍艦島が右手に見え、付近には水仙公園や健康村の温泉もあり、賑わっている。


長崎半島の最南西端、椛島の先、この先は中国大陸。


権現山頂上、遠見番所跡の道しるべ。


山の眼下に浮かぶ軍艦島


みさき道の起点、十人町の標識。太閤すしの上にある。


みさき道の途中、活水大学の横を通り、大浦の石橋へ。ここから28キロを
昔の人は歩いた。



 3、永井隆博士の住まい、如己堂
 己の如く人を愛せよという聖書から名づけられた永井博士の住まいである。長崎大学の医学博士であった永井隆氏は、長崎原爆で自らも被爆しながらも、被爆者の治療にあたった。戦後、病に倒れた永井博士は、浦上のキリスト信者が建ててくれたこのわずか畳2枚の部屋で執筆活動や平和運動を行った。彼が作った「この子らを残して」の本は映画にもなり、「長崎の鐘」の歌は、平和長崎の象徴とされる歌で、今でも浦上教会の前に記念碑が建てられている。永井博士は1951年、43歳の若さでなくなられた。如己堂の場所は、平和記念像のすぐ裏手の通りにあり、記念館となっている。
  下。如己堂前の通りで、付近は静かな住宅街である。


 2、東山手の洋館群、活水女子大学

長崎の風景2
長崎の東山手の洋館、活水女子大学(中央の赤い屋根の建物)

長崎の洋館を代表する建物。いまから127年前の1879(明治11)年に、宣教師エリザベス・ラッセルが設立した女学校である。石坂洋次郎の文学作品の映画「若い人」などに幾度かロケ地となるなど、古い歴史と景色のいい大学である。この大学の出身者は、わが国初の女性大臣となった中山まさ(長崎市出身)や、女性解放運動や代議士として活躍した神近市子などがいる。神近市子は1888年長崎県北の佐々村の生まれで、苦学して活水女学校と津田塾を出て、青森県の弘前中学で教師となるが、女性解放団体への加入が知れて解雇。東京日日新聞の記者となり、大杉栄などと親しくなり、社会主義運動に接近。しかし、恋愛のもつれから大杉を刺し、2年の懲役刑で入獄。作家となる。戦後、社会党から代議士に当選。4期勤めた。などを輩出するわが国でも有数の大学である。入った人の話によれば、廊下も石段も風格があるもので、歴史を感じさせるという。付近には石畳のオランダ坂があり、代表的な観光地となっている。



  長崎原爆落下中地の千羽鶴
8/9、長崎原爆原爆公園の千羽鶴

 1945年8月9日、11時2分。この上空で米軍が投下した原爆が爆発し、一瞬のうちに7万余の方の命が失われました。戦争の惨禍といえ、あまりにも悲惨です。日本にとって大義なき無謀な戦争の終わりでした。
 私見ですが、広島、長崎で原爆投下が終わったのはなぜか? 米国が7月16日に完成させた原爆は3個。実験で一個使い、広島、長崎で3個だったのです。もし、あの時、もう少しアメリカが原爆を持っていたら・・と思うと、日本国中の軍需工場の都市は破壊された可能性があります。歴史書には次の標的は、小倉、新潟とあります。なぜなら、日本は7月26日のポツダム宣言受諾を拒否し、広島、長崎の被爆後も、8月14日まで、降伏に反対し、国体維持のために、挽回作戦を考えていたからです。神風特攻隊を提唱した大西大将は、「あと200万の国民が特攻に命をささげるならば日本は勝利することができる」と、終戦の是非を議論する場で発言しているのですから。
 1945年7月、アメリカに3個しかなかった原爆は、今世界の10カ国に3万発も保有されています。威力も当時の広島、長崎の比ではありません。核は爆発すれば地球すら滅ぼします。また、原爆は生産費用が一個7000億円といわれ、爆発しないまでも、経済的にも国を滅ぼすのです。核を持つものは核で滅ぶのです。
 核廃絶を心に願い、闘いながら、千羽鶴をさらに増やし、世界中に届けたいと思います。2006年8月9日の長崎の空はきれいに晴れていました。
   
原爆で倒壊した浦上天主堂1、資料館写真から
原爆で倒壊した浦上天主堂2、資料館写真から
原爆で倒壊した浦上天主堂の鐘楼。天主堂左崖にある。
現在の浦上天主堂の遠景
平和記念像下の奉安箱 
平和祈念像横付近のきれいなもみじ
原爆落下中心地の千羽鶴
09年8月9日、第64回目の長崎原爆忌の落下中心碑。